随書作主(22)

珠光方寸庵

茶の湯の動乱期…幕末

仁 恕

逆境に立上がった偉大な茶人 

○茶の湯の歴史の中で動乱期と云えば、幕末から明治維新による革新という波に、息も絶え絶え、まさに絶滅の時であったと言っても過言ではない。こんな時代を今の茶人の中で知る人が少ないばかりか、その歴史的事実を全く知らない茶人さえいる。長びく景況感の乏しい昨今、逆境の時代に敢然として立上がった勇気ある茶人から学ぶものは多いと思う。

日本文化崩壊に立上がった十一代目

 明治五年(1872)に茶道の原意と題して『茶道の原意は忠孝五常を精励し、節倹、質素を守り家業を怠らず、身分や交友の親疎を隔てず、誠心を以て尽くすものである。わずか一点の薄茶にもそれが籠もれり…』と述べた今日庵、裏千家十一代 玄々斉精中宗室(明治十年没68才)その人である。

舶来文化で茶器は二束三文

 維新の頃、当時流行の先端をゆくものと、時代遅れを象徴するものを対比した『目今形勢興産競べ』という番付表が出た。それによれば時代遅れの大関として大名行列の金紋先箱であり、関脇は茶器であった。舶来文化が急を告げ、廃仏毀 釈をはじめ日本古来の文化を徹底的に賤しんだ時代といえる。特に茶器や美術骨董品の類は二束三文で叩き売られ、金森宗和が東福門院御用の野々村仁清に作らせた金箔銀箔という金銀菱紋重茶碗は僅か10円でも誰も振り向かず買い手がなかったようだ。

家元は長屋住まいで行商に

 この時代は奈良興福寺の五重塔が25円、姫路城の天守閣が100円で払い下げられ、雪舟の絵が夜店で駄 菓子と一処に並べられていたという。明治四年(1871)三月郵便制度が発足、同年十一月に横浜に83ヶ所の共同トイレ、明治六年にはチョンマゲ隠しの帽子が大量 に輸入されるなど欧米文化に追いつくための世相が茶の湯を軽視し顧みられなくなったとしても当然の成りゆき。茶道の家元が貧窮のどん底から長屋住まいで行商した時代でもあった。

茶の道のルーツと茶人伝  茶の木の原産地が多くの学説の中で、インドのアッサム地方が定説となっており、中国の四川省に伝わったとされている。  茶が一般の人々に広まったのは唐時代(618〜907)のことで、この頃各地に茶店ができ、お茶を飲み乍ら世間話が交わされたことが茶道の古典本といわれる『茶経』を陸羽という人が書いている。

次号から@喫茶の起り (1)婆佐羅と侘び (2)利休の出現 (3)茶道の隆盛 (4)近代茶人たち と五項目に大別 して茶人伝を幼少6才の頃から、わが父をはじめ多くの文人、茶人から学んだノートや、先達者の貴重な文献を参考に浅学非才ながら記述してみたい。その中で私が最も敬尚する″わび茶の開祖″村田珠光については私の茶道研鑽の集大成として力を入れてみたい。珠光の『茶の湯の道具でもっとも大切なことは和漢の境をなくすことだ。』という遺戒は、金にまかせて唐物を集め、贅を極める当時の大名達への批判であり、茶の湯に民族的なセンスを盛り込もうとした茶人としての精神的貴族の表現として瞠目している。

船橋市民新聞 2001年 3/1発行 第29号


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