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藝林文庫(11) 浜 旦(はまあした) |
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第二次大戦で日本の米軍からの本土空襲千六百回、B29延べ三万三千機、被害家屋二百五十万・同総人数八百余万の中で奈良・京都・鎌倉・日光等は奇跡的に戦火を免れた。 終戦時、美術研究所長(のち芸術院会員)だった矢代幸雄はこれへの感謝の一声を大恩人に捧げた。激烈な戦中、「日本文化財リスト」と刻明地図とを作り米政府委員会に提出、日本古都国宝文化財救済に奔走したハーバード大美術館東洋部長ラングドン・ウォーナーその人に。 矢代、ウォーナーは大正五年、横浜・原三渓宅で邂逅。以来海を越えて往き来し互いの家に泊まり合う仲となる。 彼は明治三十八年初来日。岡倉天心に会い天心と日本美術とに心酔、翌年から茨城県五浦の天心宅に下宿、東洋美術を学ぶ。四十三年、ロンドン日本国宝美術展開催時、カタログ以上の完璧な案内書をと政府依頼を受けた天心は愛弟子のウォーナーらにこれを作らせる。完成資料全三冊。四十年後、偶々これが奈良・京都を救う原資料となった。 ウォーナーは戦後再来日、万歳で迎えられるが「全てはマッカーサーの功績です」と自らの功を隠し謙譲を通 す。 三十七年、茨城大・稲村退三教授(矢代の東京美術学校時の教え子)は五浦研究所書庫から先の日本文化財リスト写 しを遂に発見、感涙に咽ぶ。 ※五浦に天心立像とウォーナー胸像とが並び立つ。共に人間国宝・平櫛田中の作である。 ※奈良法隆寺境内、静寂な松林にウォーナー塔・報恩感謝碑がある。自由労務者・中川伊太郎が貯金をはたき建てた。碑文は「ウォーナーおじさんありがとう」と読める。
船橋市民新聞 12/1発行 第26号 |
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